お金儲けの神様、邱永漢さんの本を読んで、お金儲けの基本を学びましょう。 その本は、時代を問わず、お金の本質を突いています。

お金だけが知っている |邱永漢

お金だけが知っている
邱永漢
PHP研究所 (2003/11/22)
売り上げランキング: 35,288
おすすめ度の平均: 4
4 広い視野で世界を見てます。
(評価:★★★☆☆)

●邱永漢氏の本にしてはまじめな内容というと失礼ですが、本格的に経済、
 社会をどう読むのか、どう理解するのかについて書いた一冊です。


●とくに圧巻なのは、2年前平成15年4月の時点で、原油の50ドル突破
 の可能性を指摘しているということでしょう。


●私も勉強のためにドル・ユーロを定期的に買っていますが、実際に国際的
 にビジネスを手がけ、世界を飛び回っている邱永漢氏の経済を見る視点は
 鋭いものがあります。

 ・二十一世紀は喧嘩外交の世紀になると私は見ているが、口数が多ければ
  勝負に強いということでもない。為替レートがいちばん正確なバロメー
  ターになるから、為替レートを正しく判断できる人が時代の優れた予言
  者であるということになる。(p237)


●邱永漢氏が政治家として大成していれば、日本の現在も違ったものに
 なっていたかもしれないと思うのは私だけでしょうか。

 ・私はODAやOECDの財政資金が年々増えつづけるのを見て、 
  日本が発展途上国に援助することには反対ではないが、はたして
  これらの資金が有効に使われているかどうかチェックする必要が
  あると書いたことがある(p104)


■この本で私が共感したところは次のとおりです。


 ・よく日本は外交下手だから、中東から石油が手に入らなくなるのでは
  ないかと心配する声を聞く。日本の外交下手は事実だとしても、お金
  さえあれば、石油が手に入らなくなる心配はまったくないだろう。
  (p41)


 ・グローバル化とともに資源は武力で確保するものから、お金で買える
  ものに変わってしまった。お金さえあれば欲しい物は何でも買える。
  (p145)


 ・まず第一にいえるおとは、戦争は仕掛ける側にとっても、仕掛けられる
  側にとっても、お金のかかる引き合わない事業になりつつあることで
  ある。・・・戦争のやり方も変わったが、戦争はいよいよ引き合わない
  社会制度の一つということになってしまった。これも人間が少しは利口
  になった証拠だろうか。(p200)


 ・言葉を覚える早道はそういう環境に身を置くことだから、学校を
  出たら、そのまま外国の大学へ勉強に行く道を選ぶ。(p76)


 ・どこがこの次の経済大国になるかは、ヒトよりカネのほうがよく
  知っている。カネはどこに行けばお金が儲かるかを本能的に知って
  いるからだ。(p172)


「お金だけが知っている」邱永漢、PHP研究所(2003/11)¥1,365
(評価:★★★☆☆)


読んでいただきありがとうございました!

【邱永漢さん】
1924年台湾生まれ。本名は邱炳南。

10人兄弟の長男。父邱清海は台湾人実業家。母堤八重は久留米生まれの日本人である。 13歳のとき台北高校尋常科に入学し、このころから自ら詩を書き、個人雑誌『月来香』を発行している。台北高校の同窓に李登輝がいた。

1942年に来日。1943年東京大学経済学部入学。 1944年、邱の友人の冗談を真に受けた憲兵隊によりスパイ容疑で逮捕されたが一週間で釈放。

このころ、経済学部の定期試験で満州国の統制経済について問われ、日本の満州支配を経済学的に批判したところ、 不穏思想の持ち主として退学処分になりかけた。 1945年に東京大学経済学部を卒業後、東京大学大学院で財政学を研究。

1946年に大学院を中退して台湾に戻り、土建会社経営、中学の英語教師、銀行のシンクタンク研究員を経験。砂糖の密輸に手を出して逮捕されたこともある。

1948年に台湾独立運動に関係して中国国民党政府から逮捕状が出たため香港へ亡命。このとき、物資欠乏の日本に郵便小包で商品を送る事業を始めて成功を収めた。 香港で高級マンションに住まい、運転手つきの自家用車を乗り回す身分となった。このころ、友人の窮状を題材に処女作「密入国者の手記」を執筆、この作品が山岡荘八や村上元三から激賞され、「大衆文芸」誌で作家デビュー。

やがて事業が傾いたのを機に、娘の病気の治療と文学修行を兼ねて1954年より日本に移住。1954年『濁水渓』を現代社から上梓、直木賞候補となる。 1955年に小説『香港』で第34回直木賞を受賞。外国人として最初の直木賞受賞者である。

当時、金銭について語ることがタブーだった日本において、『金銭読本』『投資家読本』など蓄財に関する実用的評論を発表して好評を博した。 1960年頃には200万円の元手で株を始めて1年で5000万円に増やしたこともある。 「邱永漢が薦める株は必ず上がる」と噂された。

1971年には、台湾の政情変化を受けて国民党と和解。台湾政府に乞われ、経済建設を支援すべく台湾に帰って国家事業を指導。やがて事業が不振になったので再び日本に移住。 第一次石油危機では大損害を蒙り、胃を壊して入院したことがある。

1980年、家族と共に日本国籍を取得。その直後に参議院全国区選挙に無所属で立候補したが15万票しか取れず下位落選。 1998年の香港返還を目前に、香港に移住。中国に移り、雲南省でコーヒー栽培事業を営んでいる。

実業家としてはドライクリーニング業・砂利採取業・ビル経営・毛生え薬の販売など多方面に活躍。東京には邱永漢経営の中国語教室も存在する。 日本におけるビジネスホテル経営の元祖でもある。

大の食通としても有名。夫人の潘苑蘭は広東生まれの中国人で料理研究家。実の姉の臼田素娥も料理研究家。 素娥の娘の臼田幸世も料理研究家でNHKの「きょうの料理」などテレビの料理番組に出演。娘の邱世嬪(きゅう さいぱん、1952-)は占星術研究家でエッセイスト。 息子の邱世悦は不動産会社を経営している。